« 2024年8月 | トップページ

2024年9月

2024年9月30日 (月)

四等三角点「西裏」

 秋の当別歩き、その名も「当別」まではるばる南下してきたが、あとは駅まで戻るだけ。まっすぐ引き返すのも芸がないので、ちょっと寄り道して「西裏」へ行くことにした。「東裏」に始まって「西裏」に終わるのもいい。探訪日は同じく2024年9月4日。

 「当別」まで南下してきた道を国道337号の立体交差までもどり、高架をくぐった先を左折する(F地点)。高架に沿って行くとT字路に突き当るので右折する(G地点)。道なりに歩いて交通量の多い国道275号を注意して渡るとすぐにまたT字路。ここを右折する(H地点)。たまたまその先で電気工事をやっていて車は通行止めになっていたが、歩行者は横を通らせてくれた。その先がまたT字路。こんどは左折(I地点)。あとは用水路に沿って進むが、右手に同じような農地への橋が架かっているので、曲がり角を間違えないように進んで右折(J地点)。さらに道なりに進んで突き当りを右折(K地点)。ずいぶんうねうね曲がってきたが、あとはまっすぐ行くとすぐ右手の水路の横に保護石に囲まれた三角点が見えてくる。ここまで45分くらい。当別駅から直接来るなら、「北蕨岱」の地図のO→N→M→Lとたどれば同じくらいの時間で、ぼくはそれを逆にたどって駅へもどった。

 点の記によれば、ここは1978(昭和53)年の設置で、2003(平成15)年移転となっている。古い地図(1995)では現在地の南西50 mくらい道路際が元位置だ(新旧地図比較のマーカー位置、現地図の道路からのズレはたぶん重ね合わせ誤差)。点名の「西裏(にしうら)」は東裏に対応するこのあたりの地名だが、昔から東裏ほどまとまった集落はない。

〇四等三角点「西裏」
 北緯 43°11′39″.0815
 東経 141°30′41″.3624
 標高 (m) 7.27

 

240930a
「当別」からて国道をくぐった先の交差点までもどる(F地点)

240930b
左折した西方向(F地点)

240930c
T字路に突き当る(G地点)

240930d
右折した北方向(G地点)

>240930e
道なりに進んだT字路(H地点)

240930f
右折した北方向(H地点)

240930g
T字路に突き当る(I地点)

240930h
右折した西方向(I地点)

240930i
右の水路を渡る橋(J地点)

240930j
右折した北方向(J地点)

240930k
道なりに進んだT字路(K地点)

240930l
右折した北東方向(K地点)

240930m
右手の水路際に三角点(矢印位置)

240930n
保護石に囲まれた中に標石がある

240930o
全景

240930p
標石

240929z_20240930170701
位置図(国土地理院地図(電子国土web)に一部記入)

240930zz 
新旧地図比較(今昔マップ on the web、 右が1995年)

2024年9月29日 (日)

二等三角点「当別」

 秋の当別歩き、「北蕨岱」の次はさらに南下して「当別」へ。探訪日は同じく2024年9月4日。

 「北蕨岱」まで南下してきた道をさらに1ブロック直進するとT字路に突き当るので、ここを右折する(D地点)。風情のある細い道を西へ進むとやがて大きな道路に突き当るので左折する(E地点)。この道には昭和初期に当別~江別間の江当軌道が通っていて、曲がったすぐ先あたりに蕨岱駅があった。あとは1ブロック先の国道337号の下をくぐり、さらに約1ブロック先の右側の民家の庭先に三角点がある。道路からは松の木ごしに標石が見えてきて、木立を通り過ぎて反対側からみると、奥のアスパラ畑の手前に四角い標石が突き出しているのが見える。横には標柱も立っている。道路との間には用水路があるが、等間隔に鉄骨が渡してあるので、注意して渡れば標石位置に到達できる。由緒ある二等三角点であるが、天面は汚れ、畑用の支柱をくくりつける台座にされているのが不憫だ。

 点の記によれば、ここは1911(明治44)年の設置で、1978(昭和53)年移転となっている。古い地図(1950)では現在地の南東100 mくらいの元の蕨岱小学校があったあたりに三角点記号がある。ちなみに蕨岱小学校は同じ1911年の開校なので、初代の三角点はその校地に設置されたのだろう。点名「当別(とうべつ)」は、いうまでもなく当別村に由来する。このあたりは村の中心部からはずいぶん南にはずれているが、初期に設置された二等三角点なので、代表する名前を付されたのだろう。なお、標石は二等の文字が左書きで新字体なので、移設時に交換されたものと思われる。

〇二等三角点「当別」
 北緯 43°10′50″.4206
 東経 141°31′58″.2775
 標高 (m) 9.31

 

240929a
「北蕨岱」の先の交差点をこえてさらに南へ

240929b
1ブロック先の突き当りを右折(D地点)

240929c
右折した西方向(D地点)

240929d
大きな通りに突き当る(E地点)

240929e
左折した南方向(E地点)

240929f
三角点のある右手の民家横(矢印位置に標石が見える)

240929g
行き過ぎて反対側から見る(矢印位置に標石)

240929h
用水路の鉄骨を渡る

240929i
アスパラ畑の横の標石と支柱

240929j
全景

240929k
標石

240929z
位置図(国土地理院地図(電子国土web)に一部記入)

240929zz
新旧地図比較(今昔マップ on the web、 右が1950年)

 

2024年9月28日 (土)

四等三角点「北蕨岱」

 この秋の当別歩き、「東裏」の次はまっすぐ南下して「北蕨岱」へ。探訪日は同じく2024年9月4日。

 「東裏」から少しもどったところのT字交差点を左折する(C地点)。あとは20分くらいまっすぐ南下するだけだ。道は途中からたよりなげなダートになり、周囲は見渡す限りの田園風景が広がる。やがて左手の道路際にパイプを組んだ四角い枠組みがあらわれる。その中央に三角点の標石と保護石つきの上面舗装枠が鎮座している。こんな座敷牢みたいな枠組みを組んであるのは初めて見た。とても目立つのでさがしやすいのは助かるが、そんなに重要な拠点なのだろうか。

 点の記によれば、ここは1978(昭和53)年の設置で、2000(平成12)年移転となっている。古い地図(1995)では現在地のすぐ左横、道路の反対側くらいの位置に三角点記号がある(新旧地図比較のマーカー位置)。「東裏」の移動距離よりさらに近く、地図上の誤差かと思うほどだ。このあたりの管理者はよほどの律義者だったのだろうか。点名「北蕨岱(きたわらびたい)」の蕨岱は東裏同様このあたりの地名で、中心部はこの次に訪れる「当別」のあたりだ。そこからは北に位置するので北を冠したのだろう。蕨岱といえば、函館本線山線の長万部近くにあった蕨岱駅(廃止)を思い出す。字も読みも同じだ。蕨が生えていたからという語源説があるらしいが、開拓時はそんな原野だったのだろうか。

〇四等三角点「北蕨岱」
 北緯 43°11′41″.1446
 東経 141°32′21″.8632
 標高 (m) 10.93

 

 240928a
「東裏」からT字交差点へもどる(C地点)

240928b
左折した南方向(C地点)

240928c
途中からいい感じのダートになる

240928d
左の道路際にパイプで組んだ枠があらわれる

240928e
枠組みの中の標石と保護石

240928f
標石

240928z
位置図(国土地理院地図(電子国土web)に一部記入)

240928zz
新旧地図比較(今昔マップ on the web、 右が1995年)

2024年9月27日 (金)

三等三角点「東裏」

 春の小樽、夏の南幌に続いて、今年の秋は当別を歩くことにした。当別町内の三角点のうち、うちから近い太美地区はすでにかなり歩いているので、今回は当別駅の向こう側へ。まずは一番近い「東裏」から。探訪日は2024年9月4日。

 学園都市線当別駅は、わが家の最寄り駅から4駅15分。家を出てから30分で歩き始められるのだから近い。この駅は2022年3月までは石狩当別駅だった(以前の記事に写真が残っている)。駅の南口(A地点)から駅前通りを直進して、ドラッグストアの先のパンケチュウベシナイ川の橋を渡り、当別川に架かる当別大橋の手前の信号を左折する(B地点)。あとは道なりに当別川を渡り、国道275号を越えて東へ進むと、30分ほどで三角点の手前のT字分岐に出る(C地点)。ここを右折すれば次に訪れる「北蕨岱」の方向だ。分岐を直進してすぐの防風柵手前から左側をみると、畑と草むらの間の道の奥にコンクリートの仕切りのような構造物があり、その左端にりっぱな三角点標石が立っている。すぐ横は民家の畑になっているので、邪魔にならないように写真だけ撮らせてもらった。

 点の記によれば、ここは1914(大正3)年の設置で、1978(昭和53)年移転となっている。古い地図(1950)では、現在地のすぐ北側に三角点記号があり、たかだか10 mくらいの違いにしかみえない(新旧地図比較のマーカー位置)。わざわざ移設するほどとも思えないが何か事情があったのだろう。点名の「東裏(ひがしうら)」はこのあたりの地名で、1キロほど東に行ったところに旧東裏小学校跡や東裏神社などがある(P地点)。地形図には東浦と表記があるが、これは誤りだろう。なお、当別町を南北に縦貫する国道275号をはさんで反対側には西裏という地名があり同名の三角点もある。東西はともかくなぜ裏なのかは不明だ。

〇三等三角点「東裏」
 北緯 43°12′37″.2842
 東経 141°32′09″.7720
 標高 (m) 14.56

 

240927a
当別駅南口(A地点)

240927b
駅前通り南方向(A地点)

240927c
パンケチュウペシナイ川を渡った先の左折点(B地点)

240927d
左折した東方向(B地点)

240927e
道なりに進んだT字路(C地点)

240927f
すぐ先の左手畑の方向(矢印が三角点位置)

240927g
奥のコンクリートの仕切りの横に標石がある

240927h
全景

240927i
標石

240927z
位置図(国土地理院地図(電子国土web)に一部記入)

240927zz
新旧地図比較(今昔マップ on the web、 右が1950年)

2024年9月20日 (金)

三等三角点「新川」

 お盆休みの学校めぐりは「樽川2」で終わってしまったが、せっかく花川のはずれまで出かけたので、ついでに前田森林公園近くの「新川」へ行ってみた。探訪日は同じく2024年8月15日。

 「新川」は前田森林公園から徒歩10分ほどのところなので、北24条駅からのバスで前田森林公園まで行くのが早い。ぼくは「樽川2」から向かったので、まず花川南中の通りをゴルフセンター方向へ行って右折(C地点)、すぐ次の交差点を左折(D地点)、まっすぐ突当りを右折(E地点)、さらにお寺の角を斜め通りへ左折(F地点)、とジグザグに進む。この斜め通りを直進すると新川沿いの新川通に突き当るので、そこを右折する(G地点)。ここまで20分くらい。あとは広い新川通に沿って北西に歩き続けるとさらに20分で前田森林公園に着く。北海道マラソンの耐久直線コースとして有名になった新川通はぼくも何度か走ったことがある。ちょうど今年のレースの10日前ということで、歩道を試走するランナーに何度も抜かれたりすれ違ったりした。前田森林公園バス停のすぐ先に前田ふれあい橋という歩道橋が架かっているので、新川を渡る(H-I地点)。渡った先を少し直進し、2つ目の交差点を右折する(J地点)。あとはまっすぐ行けば稲山公園の角に出る(K地点)。角を右折して奥の入口から入り、右側のブロック状の境界壁の4つ目と5つ目の切れ目の内側の地面に標石が埋まっている。まわりは芝生だがここだけ地面が露出しているのですぐにわかった。

 点の記によれば、ここは1972(昭和47)年の設置で、1994(平成6)年に旧位置の南東500 mに移転となっている。それ以前の履歴はないが、三等三角点であるからして最初の設置は大正時代と考えられる。古い地図を見ると1916(大正5)年には現在地の北側500 mほど新川沿いに三角点記号があり、ここが最初の位置だと思われる(新旧地図比較の上のマーカー)。その後、新川の拡幅か新川通の整備のときに近くの岸よりに再設置されたのが1972年なのではないかと思う。点名の「新川(しんかわ)」は人工河川の名前で、その掘削は明治中期にさかのぼる。

〇三等三角点「新川」
 北緯 43°08′33″.1205
 東経 141°14′43″.7834
 標高 (m) 4.23

 

 240920a
「樽川2」の先の突当り(C地点)

240920b
右折してすぐの横道を左折(D地点)

240920c
突当りを右折(E地点)

240920d
斜め通りへの左折点(F地点)

240920e
突当りの新川通を右折(G地点)

240920f
前田森林公園バス停

240920g
新川に架かる前田ふれあい橋

240920h
橋を渡る(H地点)

240920i
渡った先を直進(I地点)

240920j
稲山公園への右折点(J地点)

240920k
稲山公園の角(K地点)

240920l
公園の境界壁切れ目の内側(矢印が三角点位置)

240920m
公園内反対側から見たところ

240920n
全景

240920o
標石

240919z_20240920173601
位置図(国土地理院地図(電子国土web)に一部記入)

240920zz
新旧地図比較(今昔マップ on the web、 右が1916年)

2024年9月19日 (木)

二等三角点「樽川2」

 昨年に続いてお盆休みの閑散期に学校めぐり。といっても今年は一ヶ所だけ。石狩市花川にある「樽川2」へ。探訪日は2024年8月15日。

 石狩市は軌道系交通機関のないところなので、バスに乗らざるを得ない。JR学園都市線を新琴似で下車し、すぐ近くの新琴似駅通バス停で地下鉄麻生駅発花畔・石狩庁舎方面行きのバスをつかまえる。バスは西5丁目・樽川通を北西へずっと進み、石狩市にはいってすぐがもよりの花川南9条4丁目バス停だ。ところがぼくの乗ったバスは手前の交差点(A地点)を右折して石狩南高校前に停車した。あわてて下車して元の通りのA地点へもどる。行先は同じだが高校を経由する路線としない路線がわかれているのに気づかず乗り間違えたのだった。もどったA地点のすぐ先に花川南9条4丁目のバス停があり、そこのスーパーの角を左折する(B地点)。その先の左手が花川南中学校で、正門の奥の通用口をはいったすぐ右のフェンス際の木の横に三角点がある。草が茂っているが、注意してさがすと奥に二等三角点の標柱が見え、その手前の草の中に標石がある。バス停から歩いて5分と近い。

 点の記によれば、ここは1977(昭和52)年の設置で、1983(昭和58)年移転となっている。しかし二等三角点なので最初の設置は明治時代であることは間違いない。実際、古い地図を見ると1916(大正5)年には現在地の200 mほど北の砂丘上に三角点記号があり、ここが最初の位置だと思われる(新旧地図比較・上のマーカー)。それが1977年の地図では中学校の正門寄りの位置に移動して(同・赤矢印)、さらに現在地(同・下のマーカー)へと変遷している。つまり、明治時代からの三角点は一旦廃止の上、1977年に赤矢印位置に新設され、それが6年後に少し動いて現在地になったという経緯だろう。点名「樽川(たるかわ)2」の樽川はこのあたりの古くからの地名で、他にも「樽川」という三等三角点が2か所この近くに存在する。同名の三角点は珍しくはないが、10キロ圏内くらいに3つもあるのは珍しいのではないか。しかも二等が1点、三等が2点といずれも由緒は古い。そのうちここだけに正式名称に「2」が付されているのも謎だが、改廃を経ているせいだろうか。ちなみに、旧樽川村と旧花畔村が合併して花川村となり、さらに石狩町に併合された後、石狩市となって現在に至っている。

〇二等三角点「樽川2」
 北緯 43°08′12″.6680
 東経 141°17′03″.3566
 標高 (m) 4.48

 

240919a
花川南9条4丁目バス停(北西方向)

240919b
すぐ先の交差点(B地点)

240919c
左折した南西方向(B地点)

240919d
花川南中通用門(矢印が三角点位置)

240919e
木の左横の草の中に標石がある

240919f
全景

240919g
標石

240919z
位置図(国土地理院地図(電子国土web)に一部記入)

240919zz
新旧地図比較(今昔マップ on the web、 右が1916年)

2024年9月15日 (日)

詰将棋パラダイス2024.9月号

 詰将棋パラダイス9月号、到着は9月2日。結果稿は6月分。詰棋校がお休みで、順位戦が行われた月だ。順位戦は力の入った力作ぞろいで、以前は頑張って解いて全題正解者に名前を連ねた時期もあったのだが、最近はパスしてばかり。手数は15手と短いのだけれど、とっつきにくそうで解く気が起こらない。それに引きかえ、同じ月にある同人室はより手数が長いにもかかわらずなぜか解きたくなる。テーマが決まっていてヒントがあるからというわけでもない気がする。不思議なものだ。ただし、手数順と書いてありながら初っ端から4手も長いのをもってくるのはいただけない。ずいぶん考えさせられた。

 学校は休みでも年間休みなしなのが保育園と幼稚園。ブラックなわけではなく貴重な初級コーナーなので休めないのだろう。この二つと表紙詰将棋だけは数少ないメール解答不可の常設コーナーだ。10月から郵便料金も上がることだし、ぼくはもうメール解答だけにしようと思い、下半期の7月号からは郵送解答は取りやめにした。というわけで6月号が最後の解答送付で卒園のつもりだったのだが、なんと幼稚園でまた間違えて最後を飾ることができなかった。そう、あの問題だ。某氏の短評に「この手順前後トラップはヤバい」とあるとおり、26人の誤答者にはいってしまった。手順前後の罠にはよくはまるな。注意力不足としかいえない。作品は例によって末尾に。それはともかく、解答ハガキはさみ込みをやっているニコリですら前号からweb解答を開始したし、そろそろ詰パラも全コーナーメール解答可にしてくれないかな(できればwebページから一回の送信ですめばいうことない)。さしあたってはもうじきやってくる短コンをどうするかだ。ぜひ解答参加したいがこれだけ郵送というのもな。

 あと6月号にあるものはというと、神無一族の氾濫だ。今回はなかなか多彩で楽しめた。結果は5題中4題正解だったから上出来だ。ひとつだけ無解だったのが3番の取禁協力自玉詰。自玉詰はほんとに苦手だ。相手玉に王手をかけ続けて自玉を詰めるという非論理性に頭がついていかないのだ。科学的思考力ではない別の能力が必要としか思えない。しかもこの作品は双裸玉。舞台を一からすべてつくらねばならないとは途方に暮れるしかない。発想力かなあ。あとはなんとか解けたし、1番の長手数協力詰は正解者5名にはいって、お見事ですとほめられたのでうれしい。しかしこのコーナー、あまりにマニアックなせいか今回も解答者がたったの13名しかなく、その錚々たる顔ぶれの中に自分の名前があるのは違和感しかない。敷居を下げるよりは孤高感こそがウリなのだろうか。

 続いては推理将棋。ここは今月も全問正解。これで3ヶ月連続というぼくにしては快挙だ。久しぶりの殿様将棋?は楽しかった。こんな制限された条件でよく詰むものだ。ところで今月の問題が問題。588番の問題はなんか変だと思っていたら、詰パラのwebページに以下の修正情報が載っていた。「・41ページ、推理将棋出題588番、出題文冒頭は「3回連続で指した駒」が正(「3回」が脱落)」。連続と3回連続では大違いなので、知らないと首をひねることになりそうだ。Webページはどのくらい見られているのかわからないけど、公平性の観点からは全員正解扱いになるのだろうな。そういえば、以前将棋パズル雑談の問題に条件脱落があり、担当者から直接メールで訂正情報が送られてきたことがあった。常連メール解答者へのありがたい配慮だが、このときももちろん結果稿は余詰扱いだったと記憶する。

 今月の一作は前述の幼稚園3番19枚目の歩氏作7手詰。いかにも怪しげな配置。ぼくは初手25金から詰めてあえなく沈没。

 

240915
詰将棋パラダイス2024年6月号幼稚園3番19枚目の歩氏作

 

2024年9月 7日 (土)

四等三角点「南幌」

 南幌町の三角点めぐり第3回、最後に市街地外れににあるその名も「南幌」へ。探訪日は同じく2024年8月2日。

 「十号」のある交差点から南十一線をさらに1ブロック北東に行くと国道337号との交差点に出る(D地点)。ここを右折してまっすぐ南下すれば1キロほどで南幌市街地にはいる。ぼくは南十一線をさらに進んだ先の「七号」のようすを見たかったので少し遠回りしたが、いずれにせよもう市街地は近い。市街地を縦貫する国道のちょうど中心部あたりに南幌消防署があり、そこに同名のバス停がある。夕鉄バス、JRバス、中央バスの3本のバス停が並び立つ要衝だ。江別からきらら街道を来る夕鉄バスと北広島駅からくるJRバスは、いずれもH→I→E→Jを経て南幌ビューロー(観光物産館)へ向かう。中央バスは栗山行きの高速バスで、国道をD→I→Eと通る。そしてここが「南幌」の最寄り停留所で歩いて10分ちょっとだ。停留所近くの交差点(E地点)のすぐ先に信号交差点があるのでそこを左折する(F地点、ローソンの角)。北東方向へ南幌神社の横をとおり、道道を渡ってさらに200 mくらい行くと右手に民家の取り付け道があり、道路からも郵便受け横に三角点の黄三角ポールが立っているのがみえる。その根元に標石がある。

 点の記によれば、ここは1979(昭和54)年の設置。点名の「南幌(なんぽろ)」は町名そのままだ。ちなみにこのあたりは古くは幌向村だったが、1962年の町制施行とともに南幌町となった(当初は「みなみほろ」と読んでいたが1966年に「なんぽろ」に変わった)。

〇四等三角点「南幌」
 北緯 43°04′04″.4976
 東経 141°39′45″.6836
 標高 (m) 11.93

 

240907a
南幌消防署前バス停(北西方向)

240907b
バス停前から南方向(E地点、先にF地点の信号が見える)

240907c
ローソンの角を曲がった北東方向(F地点)

240907d
右手の民家入口

240907e
取り付き路(矢印のポストの陰に三角点)

240907f
全景

240907g
標石

240907z
位置図(国土地理院地図(電子国土web)に一部記入)

 

 

2024年9月 6日 (金)

四等三角点「十号」

 南幌町の三角点めぐり第3回、「南十線」の次は1キロほど東にある「十号」へ。探訪日は同じく2024年8月2日。

 「南十線」から南十線(道路)を1ブロック北東に進み、西十号との交差点を右折する(B地点)。で、南東向きに1ブロック歩いて南十一線との交差点を左折する(C地点)。要は碁盤の目に区切られた開拓農地をジグザグに進むのだが、どこを歩いても景色が変わらないので、うっかり曲がり道を通り過ぎたり間違えたりする。実はこのときも曲がるべき交差点(C地点)を行き過ぎて、幌向運河を渡った先まで歩いて、あれれと確かめて引き返すことになった。GPSがないとどこにいるかわからなくなりそうだ。後から写真を見てもみんな同じに見える。左折した南十一線を1ブロック進んだ西九号との角(北側)が三角点位置だ。しかしあたりは一面の草むらで分け入るのも困難なくらい。よくみると先端を赤く塗った目印平杭が立っていて、そこに「Ⅳ 十号」と書かれているのを見つけた。ここらあたりだなと行ってみたら、杭の根元は大きな丸石がごろごろしている。保護石のようにもみえるが、固定されてないので違うようだ。その周囲の石を動かしたり、草をかき分けたりしてみたが、残念ながら標石は発見できなかった。杭があったからまあよしとしよう。

 点の記によれば、ここは1951(昭和26)年の設置で、その後1984(昭和59)年に移転となっている。点名の「十号(じゅうごう)」は道路名から採られているのだろう。このあたりはこういう点名が多いが、せめて西十号にすればいいのに西が省略されてますます没個性になっている。そのうえ、ここの存在地は南十一線と西九号の交差点であり、そもそも十号ではない。たぶん元々の設置位置はもっと西寄りの西十号の方にあったのだろう。

〇四等三角点「十号」
 北緯 43°04′26″.2173
 東経 141°38′13″.7254
 標高 (m) 4.76

 

240906a
「南十線」から北東方向

240906b
西十号との交差点(B地点)

240906c
右折した南東方向(B地点)

240906d
南十一線との交差点(C地点)

240906e
左折した北東方向(C地点)

240906f
西九号との交差点(矢印あたりが三角点位置)

240906g
草むらの中に目印杭がみえる(矢印)

240906h
近くへ寄る

240906i
根元あたりのごろ石

240905z_20240906192201
位置図(国土地理院地図(電子国土web)に一部記入)

2024年9月 5日 (木)

四等三角点「南十線」

 南幌町の三角点めぐりも第3回。やっと町内中心部へ到達した。まずは幌向運河沿いの「南十線」へ。探訪日は2024年8月2日。

 前回乗ったのと同じ夕鉄バスを晩翠バス停で下車。ここは南幌温泉近くの晩翠工業団地にある。すぐ近くが南幌市街地へ向かうきらら街道と南十線の斜め交差点になっている(A地点)。きらら街道を少し行った右手の横道角が旧夕張鉄道晩翠駅跡で、道路際の草むらに簡素な標柱と説明板が立っている。遺構のようなものは一切ない。交差点から南十線を北東方向に進み、途中国道337号の付け替え(道央圏連絡道)工事を横切り、バス停から1キロほど先で幌向運河を渡る。渡ってすぐ右手に脇道があり、その左側の草むらに三角点がある。草に埋もれているが、よくみると折れた標柱と丸い金属標が埋まった標石が顔を出している。

 点の記によれば、ここは前前回に行った「南八線」「西十三号」と同時期の2005年の設置で、様式も同じく金属標埋設軽量標石となっている。点名の「南十線(みなみじゅっせん)」が道路名から採られているのも同じ。

〇四等三角点「南十線」
 北緯 43°04′19″.2902
 東経 141°37′19″.2265
 標高 (m) 5.74

 

 240905a
晩翠バス停

240905b
交差点の南幌市街方向(A地点、矢印が晩翠駅跡)

240905c
道路際の晩翠駅跡説明板

240905d
交差点の北東方向(A地点)

240905e
国道337号付替え工事を横切る

240905f
幌向運河を渡る(上流方向)

240905g
すぐの右側脇道

240905h
脇道の左手草むらの中(矢印が三角点位置)

240905i
反対側から道路方向を見る(矢印に三角点)

240905j
全景

240905k
標石

240905z
位置図(国土地理院地図(電子国土web)に一部記入)

« 2024年8月 | トップページ

CLICK !

  • おもしろ有機化学ワールド



twitter

2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ