蕨岱神社ではなく蕨岱の神社、正式名は不明。当別町東裏の東裏神社に立ち寄った同じ日に、「南八号」三角点からの帰り道に見つけたのがこの無名社。「南八号」から二十九線を1ブロック北上した南七号との交差点の北西角にある。地理院地図には鳥居記号はなく、GoogleMapでも神社としか書かれていない。
全体は東を向いているが、正面からは用水路で隔てられていてはいれないので南側の横からはいる。ちゃんと鳥居と小さな社殿があり、最低限の様式は整っている。境内には小さな祠や石碑、地蔵堂みたいな祠もある。神仏混淆なのだろう。
このあたりは当別町の蕨岱地区で、北へ2ブロック行くと蕨岱小学校跡や地神碑がある。「当別」三角点のすぐ近くだ。この地神碑の前には鳥居があり狛犬がいて、これで社殿があれば蕨岱神社といっていい体裁だ。どういう関係なのだろう。
秋の当別郊外歩きの途次に立ち寄った東裏神社。
「南一号」三角点に行くときに歩いた北一号と三十二線の交差点(P地点)が当別町東裏の中心で、小学校跡、郵便局兼ショップ跡、消防団などがある。神社は交差点の南東角にある小学校跡の南隣で、西に向いた鳥居をくぐると正面ににぽつんと可愛らしい本殿がある。簡素な造りだが、明るい境内はわりあい広く、きちんと手入れされている感じがある。鳥居の横には沿革を記した案内板がある。それによれば、1895(明治28)年創建、1956(昭和31)年現在地に移転とのこと。古い地図をみると、旧位置は交差点の北側の消防団の裏手あたりだ。
鳥居の右手には大きな東裏開基百年記念の碑が建っている。
三角点めぐりの途次に立ち寄った神社のことを記事にしていたのを忘れていたので、その続き。ぼくは寺や仏像は好きであちこち見て歩いているが、神社には思い入れがあるわけでも御朱印集めをしているわけでもない。ただ、神社はどんな小さな集落にもたいていあって、通りすぎるのも申し訳ない気になってつい立ち寄ってしまう。それだけなんだけど。
今年は南幌町に3回通ってその最後に立ち寄ったのが南幌神社。ここはいなかの社ではなくて町内の立派な神社だ。神社の由来というのはわかりにくいが、神社庁のページによると、1894-1896(明治27-29)年に各地から入植した開拓民が祀り始めたものを合祀して1910(明治43)年に幌向神社とし、1920(大正9)年現在地に遷座とのこと。幌向神社というのは別に幌向駅の近くにあるが、どういう関係なのかは知らない。
町を縦貫する国道337号と中心部で直交する公和通という主要町道に面して参道入口があり、表参道という大層な石柱が立っている。その先に鳥居があって境内は公和通と平行の向きに南西を向いている。まあ普通の神社で、町中なので管理者(神職?)が常駐しているようだ。
小樽市朝里地区の三角点歩きの途次、たまたま前を通りかかったので寄ってみた朝里神社。きわめて簡素な造りで、鳥居と本殿のほかはなぜか用をなしていない屋根付きの手水鉢があるだけで、狛犬も由緒書きもない。もちろん無住。まあいなかの神社だからなとお参りして、帰って調べてみてびっくり。
北海道神社庁によれば、天保5年(1834)創立という。何度か移転ではない遷座しているので元の位置はわからないが、そんなに歴史が長いのか。北海道神宮の前身である札幌神社ができたのが明治にはいってからだから、それよりずっと古い。たしかに小樽が開けたのは札幌より早いからなと納得。もっとちゃんとお参りしてくればよかった。
愛宕神社という名前の神社は各地にあるが、全国に約900社もあってその総元締めが京都の愛宕山なのだそうだ。ぼくが行ったのはもちろんそっちではなく、北海道の片田舎、新篠津村にある愛宕神社だ。新篠津村といっても当別町との境に近く、何かと話題の北海道医療大当別キャンパスから歩いて30分ほどのところにある無住の小さな社だ。なんでこんなところに愛宕神社があるんだろう。
北海道神社庁のwebページによれば、1895(明治28)年に武田某が愛宕神社の御神体を奉斎してこの地に入植したのが始まりというから、由来は古い。武田の名前はこのあたりの地名に今も残っていて、三角点「武田東」を探訪した話はすでに書いた。創立は不明ながら神社は大正初期よりあったということだ。農地の中にぽつんとあり、鳥居があるから神社とわかるものの、社殿は神社らしくない。正面に愛宕神社と揮毫された古さびた扁額が架かっている。
ついでながら、社のすぐ北隣に民家があり、その軒先の植込みの中に「武田」という三角点がある。ちょっと覗いてみたくなるが、さすがに個人の住居の窓下まで無断ではいり込むわけにもいかず、さりとてわざわざ訪いを入れるのも迷惑な話だろうから、やめておいた。
お伊勢参りに行ってきた。いなかの無住の末社と並べるのは畏れ多いが、どちらが主かはともかく三角点めぐりに付随する神社訪問のひとつでもある。三角点の話はまた後ほどとして、まずは伊勢神宮の方を。
旅の出発は丘珠空港。今年3月からFDAの札幌丘珠~名古屋小牧便が就航したので、格段に便利になった。なんせわが家から丘珠までは車で15分だ。これが遠い千歳空港だと空港にたどり着くまでが一仕事だから大違いだ。機材が小さくて乗り降りに時間がかからず、手荷物もすぐに出てくるのもいい。札幌と名古屋という日本第5位と第4位の大都市を結ぶ便でありながら、両空港とも地平を歩いてタラップで乗り込むというのも、まるで昭和の中頃の風景のようだ。丘珠はともかく、名古屋小牧はセントレア開港前は名古屋の主要空港だったのだが、出発到着がすべて一階に集約されて搭乗口も一ヶ所のみと、往時の面影はまるでない。
そんなこんなで伊勢に到着。一夜明けて身を浄めて神域へ向かう。外宮も内宮も、いくつもの鳥居をくぐりぬけてたどりついた正殿は、最後の鳥居のすぐ先で門が閉じられていて、え、ここで行き止まり?と拍子抜けする。森閑とした杉の巨木の間を歩いて、どんなに荘厳な神殿が現れるのだろうと期待してきた結果がこれだ。大きな賽銭入れだけはちゃんとあって、立ちはだかる門扉に向かってお参りをするものの、どうも釈然としない。日本を代表する神社の総元締めがこれではなあ。外国人もたくさんくるだろうにまるでそっけない。
そもそもどこの神社でもご神体というのは外には現れないものなのだろうが、こうもあからさまに目の前でピシャリと扉を閉てられていては、遠路はるばるお参りにきた意気も阻喪しようというものだ。いくら想像をたくましくして願をかけてもこれではすべて扉板にはね返されてとうてい通じるとは思えない。これが仏寺ならご本尊がだいたい目前に居られているからわかりやすい。あちらは悩める衆生をあまねく救うために千本もの手をもったお姿を顕される観音様すらおられるというのに、こちらは戸板一枚、えらい違いだ。
一生に一度はお伊勢参りと、古くから多くの人々が参詣に押し寄せた。もちろん全国から参集する人々はみな十日も二十日もかけて歩いてやってきたのだ。やっとのことでたどりついたありがたい神の社がこれでは、さぞがっくりした人も多かろう。いやそんなことは百も承知で、お伊勢参りは方便で道中や伊勢での旅の楽しみが主目的だったのだろう、などと罰当たりなことを考えてしまう。まあ他人のことは言えないか。
四国八十八ヶ所の各札所の納経料等が来年4月から値上げになるそうだ。四国八十八ヶ所霊場会の公式ページにすでに告知されていたのだが、ぼくは低級遊民MJBぢぢいさんのブログで今日初めて知った。
公式ページによれば、納経料は納経帳が300円→500円、掛け軸が500円→700円、白衣が200円→300円で、納経帳の重ね印は300円据え置きとのこと。リピーターは優遇され、初回者は負担増というわけだ。88ヶ所回って納経印を集めると26400円→44000円と17600円もの値上げだ。これを高いとみるかしかたないとみるか。昨今ブームになっている神社の御朱印は相場が300円で、500円のところもあるという状況らしいから、まあそんなものなのだろうか。
それとともに納経時間も短縮されて、7時→17時だったのが8時→17時になるそうだ。こちらは朝早くから回り始めるお遍路さんには痛手だろう。ぼくも歩いたときは朝6時出発が普通だったし。ふつうの窓口なら8時でも文句のいえないところだけど、お寺の朝は早いだろうからなんとかならなかったものかと思う。なかなかお遍路歩きもやりにくくなるな。
そういえば、この納経料と納経時間の変更、すでにやっているところもあって、上記ブログによれば12番焼山寺は500円だし、36番青龍寺は8時からなのだそうだ。前に値段や時間は実は各札所で決めていいみたいな話をきいたことがあるから、今回のはうちだけ変えるのもなと様子見していた札所の意向が集まってえいっと全部変えることにしたということなのかも。
ぼくは近々2巡目を回ろうかと計画中だが、納経所でのゴタゴタがいやなのでもう納経印はもらうつもりはないから関係ないけど。
釜加神社といっても知っている人はほとんどいないだろう、と思うのはぼくが無知なせいで、ひょっとして知る人ぞ知る神社なのかも。千歳神社の末社で無格社という位置づけだが、Wikipediaにも項目がちゃんとある。場所は千歳市の北東のはずれで恵庭市との境に近い田園地帯。周囲は農地で、神社のあたりだけこんもりと木が茂っている。最寄り駅は千歳線サッポロビール庭園駅だが、歩いて1時間くらいかかる。もちろんわざわざ出かけたわけではなく、境内にある二等三角点「長都村」を見学に行ったので自然にお参りしてきたというわけだ。
木々に囲まれた境内に鳥居と本殿があるだけの無人の社で、扁額もなく賽銭箱すらない。およそありがたみのない簡素なつくりだが、立派な狛犬は鎮座していて1953年産だと帰ってから知った。ほぼ同年代なのだ。神社の由来は明治時代にさかのぼり、ご神体の弁財天とともに納められていた厨子は千歳市指定文化財として保管されているそうだ。釜加(かまか)というのはこのあたりの昔からの地名だが、どういう由来なのかはわからなかった。